昨日、フランスの哲学者マチュー・ポット=ボンヌヴィルの哲学エッセイ「もう一度・・・やり直しのための思索」(原題は「Recommencer」)を翻訳した話を書きました。私は55歳で初めて翻訳書を出したことになります。それまでTVという映像業界が中心でしたから、1つの挑戦でした。自分がまさか翻訳を、それも哲学書を翻訳することになろうとは想像したこともありませんでした。しかし、私がそれを実現できたのはマチュー・ポット=ボンヌヴィルの来日講演を聞いて、大きな精神的覚醒があったことがきっかけでした。2018年5月21日のことです。本書が翻訳刊行されたのは2年後の2020年5月初頭ですから、いかに私が素早く行動を起こしたかが理解いただけるかと思います。本書はこの講演会で司会の映画評論家のマチュー・カペルから紹介された1冊でした。
私が講演に出かけたのはまったくの偶然で、それまでマチュー・ポット=ボンヌヴィルについては知る由もなかったのですが、この時、「立ち上がる夜」という本を書くときにパリでインタビューすることになったナンテール大学の哲学者パトリス・マニグリエが同行していたので、そのつながりで日仏会館を訪ねたのでした。マチュー・ポット=ボンヌヴィルは歴史学者ミシェル・フーコーの研究者としてフランスでは著名で、このシンポジウムもずばり21世紀に私たちがフーコーをどう読むか、というものでした。フーコーは歴史学者を自認していましたが、思想家あるいは哲学者と言ってよい大物知識人です。このシンポジウムでは、「人間が消滅する」という、フーコーの著書「言葉と物」の終わりに語られる名高いテーマが語られました。二人は<人間とは多様な人間の集合体>ということでよいのだ、これが人間の見本というようなスタンダードな人間などはいないのだ、と日本の聴衆に向けて強く語りました。私は過去に、哲学者からこれくらいインパクトのある言葉を聞いたことはありません。
マチュー・ポット=ボンヌヴィルの「Recommencer」(直訳すると「再開」)は頓挫したプロジェクトを再生させるにはどうしたらよいか、がテーマになっています。プロジェクトには個人のものから国家のものまで様々なものが考えられます。一度やって失敗したからもうやめ、というのではなく、失敗した理由を考え、再度トライする。日本はこの再挑戦がなかなかできない国ではないかと思います。失敗したらどんどん切り捨てられて復活できないようなゲームの規則になっていると思います。結婚に一度失敗して離婚した女性が子育てや仕事でものすごく苦労していることはしばしば報じられています。会社でも倒産したら個人補償させられて再起できないケースも普通にあります。民主党も一度政権を取ったもののその後、野党になって以来かつての勢いを取り戻すことはできていません。私は1980年代以後の日本は成熟社会に移行する時期に差しかかっていたのに、それに失敗した状態が今日まで続いていると見ています。政治家や官僚たちに真の洞察力があれば、1980年代の金余りの時に潤沢な資金でその準備をしなくてはならなかったのです。少子高齢化の進行、成人教育の伸び悩み、高級官僚の天下り、メディアの権力への従属など、これらは社会の成熟化の失敗の産物に外なりません。その意味で、本書は思想上の起爆剤となる思考が詰まっています。これが55歳で、僭越ながら私が翻訳を自ら手がけた理由です。片道分の燃料だけ積み込んで出撃する特攻隊のような一度切りの消費的な戦い方ではなく、飛行機を失ってもパイロットの命を助けて何度でも戦えるような、人を大切にする戦い方に転換する時です。私がフランスに関心を持つようになったのも、フランスが成熟社会だと考えたからですが、フランスから学ぼうと思って渡仏してから日本で1冊の本を出すまでに18年かかってしまいました。人生は本当にあっという間ですね。
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※以下は2018年5月21日の夜、この講演会の夜に私が書いたものです。
日仏会館のシンポジウム 「ミシェル・フーコー: 21世紀の受容」 フランスから2人の気鋭の哲学者が来日し、フーコーについて語った
5月21日、東京の日仏会館で20世紀の哲学者ミシェル・フーコー(1926- 1984)に今日改めて光を当てるシンポジウムが行われた。タイトルは「ミシェル・フーコー: 21世紀の受容」。この催しのためにフランスから2人の気鋭の哲学者が来日して、フーコーについて最新の思索やフランスにおける議論などについて語り、また会場の聴衆との質疑応答も行った。 私はミシェル・フーコーについてはほとんど著作に触れたことがなかったためにどこまで二人の哲学者の話についていけるのだろうか、と多少不安でもあった。しかし話を聞きながら振り返るうちに私もフーコーを読んだことがあることを思い出した。と言っても20代から30代にかけてで「言葉と物」と「監獄の誕生~監視と処罰~」の2冊だけだ。フーコーにはおびただしい著書がある。日本でも「狂気の歴史」「知の考古学」「精神医学の権力」「知への意志 性の歴史」など多数が翻訳されている。近代以後の「知」の収集獲得が人間を監視し、統治することに、つまり権力によって利用されてきたことをおびただしい文献を渉猟しながら研究してきた哲学者としてフーコーは知られている。 登壇した哲学者はマチュー・ポット=ボンヌヴィル(リヨン高等師範学校、アンスティテュ・フランセ)と パトリス・マニグリエ(パリ・ナンテール大学)である。マニグリエについて私は2年前にパリで行われたNuit Debout(立ち上がる夜)という市民運動を取材したことがあった。それはフランスの議会政治が行き詰まりを見せていたことに端を発する運動であり、日本でも同様の市民運動が起きていることは記憶に新しい。以来、マニグリエについて私は新しい民主主義を目指す市民運動にコミットした哲学者として注目してきた。一方、リヨンの高等師範学校からやってきたマチュー・ポット=ボンヌヴィルもまたフランスではメディアでもしばしば発言が注目される哲学者である。フーコーの研究者として著名だそうだ。 いったいどんなことが語られるのだろう、と思っていると司会者のマチュー・カぺルが二人に質問をし、それぞれが答える、という形だった。つまり何かを体系的に一方的に語る講演とは異なるやり方だ。最初の質問はまず「二人にとってフーコーの著作で最も重要なものを1つ挙げて欲しい」というものだった。二人とも「啓蒙とは何か」だと答えたことが印象深い。ここに哲学の方法論が書かれていてフーコーを知るには良い本だそうだ。マチュー・ポット=ボンヌヴィルはさらに1970年から75年にかけてコレージュ・ド・フランスでフーコーが行った講義を書き起こした「異常者たち」などの著作も挙げた。最近でもフーコーの著作が出版されているそうである。フーコーは死後の出版は認めないと遺言していたそうだが、生前に一度出版して普及されなくなったものを再編集して出版する、ということが行われているのだそうだ。それだけ今日も重要な哲学者ということだ。「肉体の告白」という本などもそんな一冊だそうである。 マニグリエには" Foucault va au cinema”(フーコーが映画を見に行く)というタイトルの著作があるが、これは映画を通して哲学する、映画を哲学や思索を行うための素材として活用することのようである。マニグリエは実際にパリ大学ナンテール校の哲学の講座で映画をもとに哲学する、という講義をこれまで実践してきた。この本もそのことに関係するのかもしれない。二人の討論からすると、フーコーの哲学には2つの時代があるらしく、前半は芸術についても多く語っていたが、後半に至るとその言及がなくなると思われていたらしい。しかし、マニグリエはこの本の中でフーコーは第二の時期においても芸術への関心は衰えず、芸術を語っていたと言う。さらにマチュー・ポット=ボンヌヴィルによると、フーコーは小説家のレーモン・ルーセルのエクリチュール(文章)に影響を受け、そのスタイルを自らも使っていたそうだ。ルーセルは「アフリカの印象」や「ロクス・ソルス」と言った途方もなく斬新なスタイルの物語をつづった作家だ。 こう書いても" Foucault va au cinema”(フーコーが映画を見に行く)は未読であるし、二人の議論が十分に私に理解できたとは言えない。そもそも重要な著作の多くが私には未読なのだから、討論が十分に理解できないのは当然だろうが、それでもそこで交わされる話からフーコーを読みたいと思ういくつかの手がかりとかキーワードとか、書名をつかむことができたのは有意義だった。欧州からやってきた生きた哲学者から話を聞く、ということは本を読むのとは違う。そこに本とは異なる刺激があって良い。討論では権力の問題から、セクシュアリティの問題、新自由主義、モダンとポストモダンの対立とそれを乗り越えることなど、様々なことが語られた。わずか2時間という短い時間だったのが残念である。 ただ、二人の哲学者がフーコーを今日考える上で「哲学とは実践である」と言うことを重要視していることと、フーコーが「言葉と物」の最終章に書いたように「人間というものは消滅する」(※みたいな言葉だったと思うが・・・)というのは真実だ、と考えていることが強く伝わってきた。人間が消滅する、というのは人類の絶滅を意味するのではなく、「スタンダードな人間」という人間像の普遍的概念が消滅する、ということである。つまり、ある文化が生み出した1つの尺度を使って普遍的な人間像を決め、それに沿って他の文化の人々を啓蒙しよう、という営みを否定しているのだ。マニグリエが「主体とか普遍性と言ったものは不要なんです。不安にならなくて大丈夫ですよ。なくても全然平気ですから」とはっきりと答えたのが印象に残った。1つの尺度で「人間」の基準を作り、それを他の民族に強要するやり方は植民地主義だと明確に否定した。まさにそれこそかつて帝国主義時代のフランスが行ってきたことだった。そして、そのことこそフーコーが今世紀にも大きな存在感を持つ根源であることのように思われた。未だに帝国主義はソフトな皮を被って継続しているであろうからだ。「主体とか普遍性と言ったものは不要なんです。」この強い言葉をフランスの知の最前線に立つ、生きた哲学者から聞いたことは刺激になった。 このことは今日振り返ればアメリカが今世紀の初め以来、続けてきた「テロとの戦い」とか「民主化」へのテコ入れや武器支援も「スタンダードな人間」というものを押し付けようとしていることに他ならないのではないか。思い出せば日本のバブル経済が崩壊した1990年代にどれほど「グローバルスタンダード」と言う言葉がこの国を席巻したか。多くの会社員が長年働いてきた会社から簡単に追われた。銀行は合併や統合を余儀なくされた。多くのことが90年代に変わった。グローバル化はフーコーが生きていた1980年代にはまだ日本ではあまり顕著になっていなかった傾向である。その時、あまりにも日本固有のやり方が否定され、アメリカンスタンダードに合わせることを強要されたことが、その後の極右の台頭につながっていないだろうか。 では、「人間」と言う普遍的な価値尺度がなくなった時に私たちは人間という類をどうとらえたらよいか。マニグリエによると、差異を持つ多様な人々の「総合体」でよい。多様性を尊重し、共生を目指す、ということである。このことはマニグリエが実践的に関わった「立ち上がる夜」という運動の重要なテーマの1つでもあったと思う。またマチュー・ポット=ボンヌヴィルが昨年のフランス大統領選の際に、ラジオで「欧州が危機になればなるほど、アイデンティティが語られる」(※)と指摘していたこととも響き合う。今、欧州でもアメリカでも、そして日本でも大きな政治上の問題となっている人種や移民の問題を考える上でフーコーは改めて読まれる必要があるのかもしれない。実際、他人事でなく、今回話を聞いたことでいよいよ私もフーコーを読むときが来た、と思った。 しかしながら、このシンポジウムで私が得たことは答えではなく、複数の疑問であり、その疑問を得られたことこそ有益だった。たとえば(日本の)近代化の問題をどう考えるか、という事である。また、たとえば差異の尊重と民族主義の関係である。そしてより根源的だと思うが、啓蒙をどう考えるか、ということである。もう一つ挙げれば「哲学とは実践である」とはどういう営みなのか。これらのことを実践の中で哲学を考えようとする二人の哲学者に機会があれば改めて聞いてみたい。 ※人間の消滅 「・・人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう・・」(「言葉と物」渡辺一民・佐々木明訳) ※Mathieu Potte-Bonneville : "Plus l'Europe est en crise, plus on parle d'identite" ( france inter ) 村上良太 |