「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

ポリフォニー(多声的)な社会と単声的な社会

  私のことで恐縮ですが、フランスの市民運動を追って書いたルポ「立ち上がる夜~<フランス左翼>探検記」を2018年に出版した時、記号論の研究者の髭郁彦さんが本書は「ポリフォニー」であると批評を書いてくださいました。ポリフォニーとは多声的であるということで、ドストエフスキーラブレーなどの文学を研究したロシアの文芸評論家、バフチンの理論で知られる概念です。ドストエフスキーの小説ではいろんな個性的な人間たちが登場し、様々な刺激的な言葉を語ります。単一の神の視点で物語を展開するのではなく、多様な視点が物語に組み込まれていて、いろんな読み方ができることを意味します。登場人物の数に応じた物語があるのです。私のルポはそれまでメインストリームのメディアや国民の代表とされる国会で代弁されなかった様々な声を、パリの共和国広場に市民が夜ごとに集まって語り合う運動「立ち上がる夜」の多様な参加者たちを、1年に渡って取材したものです。ルポの取材対象は画廊主もいれば、映画の助監督や、経済学者、哲学者や学生もジャーナリストもいます。様々な人々が広場に集まって、メディアが無視してきたテーマを語ろうとしたのです。メディアが無視したと言ってもまったく触れてこなかったのではないと思いますが、しかし、それらの報道では決して代弁されていないという思いが彼らの中にはなお強くあることはわかりました。自分たちの選んだ議員が自分たちの声を代弁していない、一方で、メディアもまた自分たちを無視しているという思いが多くの人々にくすぶっていたのです。実は極右の人たちもまた同様の思いを抱いています。

 政治は様々な人々が妥協するプロセスですが、それを数で押し切るのではなく、対話によって行うことが大切です。しかし、他者の声に耳を傾けるのはたいてい、耳が痛い経験です。だから、自分に都合の良い単一の声だけ聴きたいと思いがちです。これは政治の右左に関係なくそうだと思います。そうした人にとっては~私を含めて~優れた戯曲を読むことは1つの訓練になると思います。優れた戯曲は多声的であり、声と声の対立・葛藤から組み立てられています。イギリス人は政治の危機が忍び寄ると、例えばシェイクスピアの独裁者を描いた戯曲「リチャード3世」をよく読むそうです。独裁を目指すリチャード3世の声もあれば、恐怖におののく貴族たち、さらには反撃を企てる者など様々な声が交わされます。俳優のアル・パシーノがドキュメンタリー映画「リチャードを探して」を撮影したのも「リチャード3世」が多くのシェイクスピアのレパートリーの中で意外にも今日、最もよく上演されているからだそうです。「ロミオとジュリエット」とか「真夏の夜の夢」などではないのでした。歴史に題材を取ることが多かったシェイクスピアの戯曲は若い学生たちが民主主義について思索を深めるための教材となっています。

 現代のアメリカの戯曲ではレジナルド・ローズの「12人の怒れる男」とか、アーサー・ミラーの「みんなわが子」なども挙げられるでしょう。これらはイプセンの「民衆の敵」や「人形の家」といった対立葛藤を基盤に社会について考察した近代劇の系譜にあります。

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アーサー・ミラー作「みんなわが子」

 以下は私が10年くらい前に書いたお粗末なものではありますが、1週間で集中して世界の現代戯曲を読むとしたら、と仮定して書いてみた1つのプログラムです。今書くと文章も選択も10年前とは多少違っているとは思いますが。左の中の中道左派極左の対話、みたいな間口の狭いものでなくて、極右から極左まで含んだ射程の広い対話が必要になっていると思います。

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戯曲を読むことの価値が今、問い直されているのではないでしょうか。そこでいささか強引ですが夏休みを利用してできる1週間のメニューを仮に組んでみました。題して「これで劇場はもう恐くない!読書ガイド」。難解な現代劇ももう大丈夫・・・。


<金曜日>
エドワード・オールビー作「動物園物語」

  戦後アメリカNO.1の不条理劇(1958)です。一方的にしゃべりまくるばかりで全然コミュニケーションの成り立たない人間の悲劇が描かれています。インターネット時代の今、この劇の価値は一層高まっているように思えます。
  舞台はニューヨークのセントラルパークのベンチ。登場人物は男2人だけです。この見ず知らずの二人の間で殺人が起きますが、殺人の動機は新聞のようなわかりやすい言葉では描けません。報道陣必読の戯曲です。

<土曜日>
サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら

  「動物園物語」と並ぶ不条理劇といえば「ゴドーを待ちながら」(1952年)につきます。
  二人のホームレスの男が1本の木しかない殺風景な場所でゴドーという男を待っている。ゴドーが来たらすべては救われるらしい。しかし、ゴドーは本当に来るのか?哲学的な内容を含みながらも表現はキャバレーの道化スタイルで、笑いが絶えない舞台が魅力です。
  戦火のボスニアで上演されたこともあり、大恐慌の今はニューヨークやロンドンで上演されています。人間の悲惨があるところ、この劇もあります。

<日曜日>
ベルトルト・ブレヒト作「肝っ玉おっ母とその子供たち」

  ブレヒトは現代劇史上最大の革命家です。ブレヒトは演劇を見て涙を流したり、ため息を吐くのではなく、ドラマの背後に冷徹なメカニズムを見ることができる、そんな演劇を目指しました。「肝っ玉おっ母とその子供たち」(1939)は軍隊にくっついて酒や日用品を商う家族の物語。実に愛すべき母親が子供たちを次々に戦場に送り出し、最後は一人になってしまう、その母親の愚かさを描いています。ドラマと言えば、最後は解決したり、改心したりと適当に幕を引きがちですが、ブレヒトは愚かさをもって幕を引きます。テレビドキュメンタリー作家必読の戯曲です。

<月曜日>
アントン・チェーホフ作「かもめ」

  ロシア人劇作家チェーホフの「かもめ」(1896)は近代戯曲を一変させてしまいました。
  舞台にドラマらしいドラマが特に起こらなくても、実に面白い劇が作れることを証明したのです。しかし、日本では悲劇ととらえ重いドラマに演出してきた歴史があります。一方、ロシアでは喜劇という解釈が主流です。チェーホフ劇を原作としたニキータ・ミハルコフの映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」(1977)で喜劇タッチの一端をうかがうことができます。チェーホフにはこの作品を含む4大戯曲があり、その影響はブロードウェイやハリウッドにも顕著です。

<火曜日>
テネシー・ウイリアムズ作「ガラスの動物園

  テネシー・ウイリアムズはアーサー・ミラーと並んで戦後アメリカの2大劇作家の一人と言えます。二人は戦後すぐに頭角を現しながらも、作風はまったく違います。「ガラスの動物園」(1945)は大不況下のセントルイスの母子家庭を舞台に、倉庫で働いている息子トムの友人が訪ねてくる1夜の物語です。トムには足の悪い姉がいて、劣等感から世間から隠れるように生きています。そんな姉に友達を紹介しようとしますが、あっけなく家族の希望は砕かれてしまいます。しかし、そのやりとりの中に詩情と悔恨があふれ、一度読むと忘れることができない戯曲です。

<水曜日>
アーサー・ミラー作「セールスマンの死

  ミラーはアメリカ社会派劇の第一人者と言われてきました。「セールスマンの死」(1949)はアメリカンドリームに囚われた男が、息子たちの人生を損ない、家族の幸せもつかむことができず破滅する物語です。アメリカ映画の多くは金をめぐる争いの物語ですが、この劇はそうしたアメリカ型幸福とは何なのかメスを入れています。アメリカが没落している今日、この戯曲には新たな解釈が可能かもしれません。 

<木曜日>
アルフレッド・ジャリ作「ユビュ王」

  20世紀前衛芸術の源流こそ、アルフレッド・ジャリです。シュールレアリスムからベケット劇まで、その影響の大きさははかることができません。そのジャリの傑作が戯曲「ユビュ王」です。「ユビュ王」(1896)はポーランド王を殺し、王にのしあがったユビュが臣下を粛清し惨殺し、重税をかけ、ロシアには戦争をしかけます。ジャリの時代には一人のヒトラースターリンもいなかったことを思うと20世紀を先取りするかのような話です。しかしこの残酷戯曲は高校教師への風刺から生まれた喜劇・笑劇なのです。残念ながら日本では「ユビュ王」は絶版になったままですから図書館か古書店で探してください。