ギリシア演劇以来の劇場で登場人物に感情移入して笑ったり、泣いたりする演劇を改めようとしたのがドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)でした。ブレヒトが何を考えていたのかと言えば、劇場で感情的な緊張と解決(悲劇であれ、円満な解決であれ)を与えられてすっきりしてしまう演劇では物足りないと考えたからでした。こういう劇場で感極まった後に、すっきりしてしまう状態はカタルシスと呼ばれています。ブレヒトはカタルシスに陥らない演劇を考えました。演劇を社会変革につなげようと考えたのです。観客が感動することよりも、むしろ劇で描かれている状況を認識することを重視したのです。
ブレヒトが生み出した新しい劇では舞台の上にテロップを額縁の枠に表示したり、登場人物やその他の人物が劇の進行のところどころで、ニュースのアナウンサーのように事件の最新情報を報告したりします。ただ、第二次大戦前はまだTVはありませんでしたので劇場でやっていたわけです。ドラマ自体も事件が解決するというよりも、むしろしないドラマを作ります。登場人物にはなぜ自分がそうした状況に追い込まれているのか、わからないという描き方をしています。考えるのは登場人物ではなく、観客一人一人であり、つまり、ドラマに真の解決を与えるのは登場人物ではなく、観客一人一人なのだという思想でした。これは日常生活を見渡すと、むしろリアルなあり方でしょう。ハリウッド映画で見るような華々しい解決は私たちの日常にはあまり起こりません。ブレヒトはドラマの中に観客が過剰に感情移入せず、適度に距離を取って事態の推移を見つめ、背後のメカニズムが見えるように工夫していました。これはTVドキュメンタリーと実によく似ていると思います。現実で起きている事を視聴者に語りかける声=ナレーションを語る人は登場人物の声というよりも、ディレクターあるいは番組の作り手の声ということになります。
このことは観客にとっても劇場に一時の気晴らしを求めるか、生活の変革を求めるかの違いを反映しています。ですから、ブレヒトの演劇の観客は「泣く準備はできていた」とか、「こんなに泣いたのは初めて」という風な感想はまず述べません。泣けるドラマの需要があるなら、それはそれで否定されるべきではないですが、少なくともブレヒトが考えた演劇はそういうものとは正反対でした。
その視点に立ってみるなら、私はブレヒトの最高傑作は「肝っ玉おっ母とその子供たち」(1939)という戯曲ではないかと見ています。これはドイツの宗教戦争の歴史(17世紀の30年戦争)に題材を取った作品です。内戦のまっ最中、兵隊に酒や必要品を売る幌馬車の商店の女主人とその子供たちの物語です。肝っ玉おっ母は個性あふれる女性ですが、戦場で商売をしていることで子供たちを一人また一人と兵役に取られたり、殺されたりしていくのですが、さりとて商売を改めるという発想にはついに到達できないまま、子供たちを皆失って最後は孤独になってしまいます。ブレヒトのこうした劇は叙事的演劇と呼ばれていますが、この作品がナチスが第二次大戦を引き起こしたまさにその頃書かれたことは注目でしょう。
しかし、これは過去の物語なのでしょうか?もう終わって安心して見ていられる第二次大戦の抗ナチス映画みたいなものなのでしょうか?フランスで近年、世界で突出して高い70%超の兵器輸出率の上昇と、フランス国内で起きているテロ事件の連鎖を思い出すと「肝っ玉おっ母とその子供たち」は~こんなことを言うとフランス人たちは怒るかもしれませんが~今のフランス人たちの自画像と言っても過言ではないようにアジアの私には見えるのです。私のブログを読んでくださっている方々には、すでにこのことは合点がいくことだと思います。