「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

ポルノと江戸幕府と日本政府

 日本でポルノは1970年代にやくざ映画と並んで低迷する日本映画界の収入源の2本柱となり、1980年代に本格的な映画でデビューした監督たちの中にもデビュー作は日活のポルノ映画だった人が多かったです。セックスシーンを映画に何度か交えればあとは好きなストーリーで作っていいという一種の緩さがあって、そこに若手監督たちは賭けたと言いますか。私が学んだ日本映画学校の創設者で映画監督の今村昇平は、このままでは日本映画は危ないと考えて、学校を作ったと聞いています。私が日本映画学校に入学した1989年は日本の好景気の全盛期でしたが、その前年、大学4年時に大阪から岩波映画などの映画会社に就職の問い合わせをしてもアルバイトすら一切採用しないという有様でした。景気は全盛期でしたが日本映画界はどん底にあったのです。今村昇平は1989年の入学式で新入生たちに「こんな時に映画を目指すなんて君たちはあほじゃないか」的なことを言ったそうです。

  そんな二大柱の1つ、ポルノ映画に大きな変化が到来したのは1991年でした。この年は日本のバブル経済が崩壊した年で、1991年1月に株価が下落に転じた年。その後、日本は20年に及ぶ長期不況に陥っていきます。で、ポルノ映画に変化が起きたというのは、この年、陰毛(ヘア)の撮影・上映が解禁になり、刑法上のわいせつ罪の基準が緩和されたのです。篠山紀信宮沢りえヘアヌードを米国で撮影した写真集「サンタフェ」がきっかけでした。それまでポルノ映画では「前張り」という白い紙を女優の性器の前に助監督が張り付けて撮影していたのですが、さらに編集段階でもヘアが少しでもはみ出していたら、ぼかしを入れなくてはなりませんでした。しかし、ヘア解禁でそんな面倒くさいプロセスはしなくてよくなり、ポルノが格段に製作しやすくなったのです。

  ポルノは映画館を離れ、ビデオやDVDで自宅で鑑賞できる映像作品になって大量に作られるようになりました。映画学校の脚本コースで私の同級生だった男も演劇活動のための資金稼ぎでアダルトビデオの「脚本」なるものをアルバイトで書いていましたが、なんと5本単位で発注が来ており、5本書くのはさすがにしんどいので、私に何本か書いてもらえないかと泣きついてきました。しかし、私はもうTVのドキュメンタリー番組のディレクターで忙しくなっていましたし、アダルトビデオでは日活の映画とは違って、本編への道にはならないだろうと考えて断りました。

 あの頃から、正規の就職ができなかったり、あるいは給料が上がらなくて結婚できない男たちにとってはアダルトビデオは結婚の代用品として機能しました。もしアダルトビデオがなかったら、革命が起きていたかもしれないのです。アダルトビデオは日本ではフランス革命の際にマリー・アントワネットが言ったといわれる(本当に言ったのかわかりませんが)「バターつきパン」としてうまく機能したのです。このことを考えると、日本の警察庁および官僚と自民党の政治家は先行きをよく理解していたと思います。バブル経済崩壊後に来る時代を正確に読んでいた人物が何人か確実にいたのです。

 しかし、ことは決して新しいことではなくて、歴史を見ると支配者は一貫してポルノを統治術に活用し、江戸幕府は当時のポルノ(風俗:かつては歌舞伎と呼ばれていた)を緩めたり、厳格化したりすることで民衆を巧みに統治して反乱を抑え込んできました。そうした統治術は(嘘ではなく)今日に受け継がれています。ポルノの世界では男性が女性にサディスティックな振る舞いをすることが多いのですが、これは観客であり消費者である男性に、どんなに末端労働者であろうと、日本社会の「支配者」であることを意識させているのではないでしょうか。階層を示す服を脱ぎ去り、すっ裸の状態で自分が支配者であると認識できれば、経済社会的関係の階層構造の中で下位にあっても、支配者であるという幻想に浸れるのではないかと思います。まさにこのことはポルノにとっては歴史的な視点に立つと、必然的な演出ではないかと私には思えるのです。