「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

私の選ぶこの1本「ミスター・グッドバーを探して」(1977)

  アメリカンニューシネマの末期に当たる映画だと思うのですが、「ミスター・グッドバーを探して」は傑作だと私は思っています。基本的に私はアメリカンニューシネマを見て育ったと言ってもいい人間で、この時代の映画作品の根底にある反戦とか反差別、表現の自由人間性の重視などの価値観に染まっていると言っても過言ではありません。しかし、そんな中にあって、この映画は「イージーライダー」や「さらば冬のカモメ」あるいは「明日に向かって撃て」などとはちょっと違ったものがあるように感じられます。だからでしょうか、日本でのこの映画の批評や解説の類はちょっと的を外しているのではないかという印象を私は持っています。

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映画「ミスター・グッドバーを探して」

  ダイアン・キートン演じる主人公は、昼は聾学校のまじめな女教師、夜は男とドラッグを求めてバーを徘徊する乱れた女という二面性のある人間です。なぜ、そうなのか?というのが実はなかなかすっきりわからなくて、ただ、美しくて社会的な基盤もある彼女の行動が謎めいていて、その動機はなんだろうか?なぜこんな風に生きるのだろうか?という風に、なかなか見えてこない「なぜ」を抱きながらもドラマに見入っていく映画です。結局、彼女は殺されてしまうのですが、最後にさらっとこんな事実が語られるのです。彼女は子供の頃に病んだ病気のおかげで、手術を繰り返したが、背骨が曲がっているために子供を産むことができない体なのだ、と。この事実は実はものすごく大きなことで、まさにそのことが彼女の人生を損ね、普通の明るい家庭を持って生きる希望を失わせたものであるのです。人間の中には通り一遍の観察ではわからない心の葛藤があり、それが往々にして人間を支配しているものです。特に、今の父権制社会にあっては女性は子供を産む、ということが最大の存在理由となっています。

 私は以前、不育症と呼ばれる人々を大学の産婦人科で取材したことがあります。不育症というのは習慣流産のことで、妊娠しても流産を繰り返してしまうケースです。外来を訪れる女性たちの中にはノイローゼ気味にまで追い込まれた女性や神社詣でを繰り返している女性までいました。街で彼女たちが歩いているのを見れば、そんな苦しみに追い込まれているとはぱっと見にはわかりません。でも、本人たちはものすごく悩み、苦しんでいるし、周囲に理解してもらえないという意味で、孤独でもあるようです。このことは「ミスター・グッドバーを探して」と通底する現象ですが、しかし、ダイアン・キートン演じる女性の場合はもっと深刻というか、そもそも妊娠という入口も封じられているのです。

 彼女はその苦しみから抜け出す回路を夜のスリルと快楽に求めるようになりました。その気持ちはよく理解できます。でも、そのことは映画の最後にならないと明かされません。たとえて言えば野球の9回の裏になって、初めてわかる。わかるのは観客。もしかすると、ダイアン・キートン自身が自分の病的衝動の由縁をはっきりと認識していなかったのかもしれないのです。もし、認識するに至っていたら、解決への道も開けていたでしょうから。この映画は安易なカタルシスを観客に与えてくれません。その意味ではブレヒト劇的な世界とも言えます。いろんな男との出会いがありながら、彼女はついに真実の自分自身に出会うことができなかったのです。普通のドラマなら、彼女の肉体の葛藤の原因を序盤の終わりあたりで明かして、それを克服する彼女のドラマになりがちですが、「ミスター・グッドバーを探して」では一番肝心な問題の根源が終盤まで語られず、まさにそのことが重要であることをさらりと明かす、という「不在」の構成になっています。