「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

フランク・ミシュラン教授のオンライン講演を聞いて  <太平洋戦争の発端は1940年から41年にインドシナで起きた>

  今日、私は日仏会館とフランス国立日本研究所が共同主催したオンラインの講演会に参加しました。帝京大学のフランク・ミシュラン教授が語る内容は、極めて興味深く思われたのです。太平洋戦争と言うと、1941年12月8日の真珠湾攻撃というイメージが日本人には強いわけですが、なぜ真珠湾攻撃に至ったかと言えば、その根っこにはインドシナにおける英領と日本の確執があったというのが核心でした。もちろん、私たちも学校教育でハルノート等々、米国から石油の禁輸措置などの圧力をかけられた結果、真珠湾攻撃に踏み切ったとされるまでは学んでいるわけですが、今日の講演の核は日中戦争インドシナ侵略→真珠湾攻撃とつながっていたことを時系列で押さえながら因果関係を探るというものでした。教授によると日本軍の内部資料はその大半が戦争末期に焼却されてしまったために意図が極めて研究しづらいのだそうです。そこで時系列に事実を見ていくわけです。

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 日中戦争が長引いた挙句、ついには蒋介石への輸送網(援蒋ルート)を断つためベトナム北部に日本軍は1940年9月に兵を進めました。これは当時ベトナム宗主国だったフランスが1940年6月にナチスドイツへの敗北後、傀儡のヴィシー政権が日本軍の進駐を認めたことによるもので、「北印進駐」とも言われています。

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  ( 1940年6月、不倒と呼ばれたマジノ線が突破され、フランスがナチスに占領され、英軍とドゴール派の仏軍が渡英した頃のチャーチルの演説。たった一国でも戦い抜くことを議会で宣言)

   日本に対する米国の警戒は北印進駐のあった1940年9月に、ナチスドイツなど枢軸国で結ばれた日独伊三国同盟でピークに達します。この時、まだ米国は第二次大戦に参戦しておらず、欧州では英国だけがナチスと戦っていました。東南アジアの英領が日本軍に制圧されてしまうことは、ナチスと戦っている英国を苦境に陥れる、という見方が米国内で強まっていきます。「バトルオブブリテン」というスピットファイアの活躍を描いた英国の戦争映画は、ナチスドイツが1940年7月に英国の征服のために大量の戦闘機と爆撃機を征服したフランスの空港から英国に送り込んで攻撃をしかけ、10月末まで続いた攻防戦を描いています。この戦いで英空軍の活躍で英国は本土防衛に成功し、ナチスドイツは攻撃の矛先をソ連に向けることになりました。まさに、日独伊三国同盟がこの最中に結ばれており、英国の首都ロンドンはボロボロになって孤独な戦いを続けていました。1941年の前半の時点では、まだ日本国内には北進してソ連と戦うという考えと、南進して英領や仏領、蘭領などを占領するという考えと葛藤していました。

   しかし、ついに翌1941年7月末には日本軍は再びヴィシー政権の承認のもとにベトナム南部に兵を進めました。ベトナム南部に兵を進めるのは対中包囲とは理由が違っていたはずです。この南進が大きな意味を持っていたことが教授の講演で浮き彫りになります。三国同盟を結んだ直後から米国は屑鉄の禁輸など一部の対日経済制裁を始めていましたので、日本軍が南下する最大の理由は資源の確保にありました。米国は翌8月に日本に対して石油の輸出禁止などの経済制裁も行いました。これは大きなインパクトがありました。日本が敵対していたのは「西欧列強」、というような漠然としたものではなく、東南アジアにおけるアングロサクソンの「英領」(シンガポールビルマ、マレーシア、インド)=ナチスと敵対していた英国領への侵略こそが、太平洋戦争の始まりに大きく意味を持ったことになります。この頃、1940年秋に本土防衛に成功した英国はアフリカや英国に大英帝国の各地の植民地から資源や兵器、兵員をかり集めて、ナチスへの戦争準備を単独で必死で進めており、その意味でも米国にとってはアジア地域で英国を支援する必要があったのです。要するに米国は戦争に参加こそしておらず、武器を振り上げることは未だできなかったものの、外交的にできることを全部やって闘っていたと見てよいというのが今日の講演の勘所だったと思います。

  こういう風に見ていくと、1941年12月の真珠湾攻撃は1940年7月の北印進駐から始まった一連の流れの結果である、ということになります。このことは漠然とは学校教育の中で教わってはいたのですが、この1940年から41年という時を細かく見ていくと、確かに知らなかったことが多いことに気づきます。特にフランス領インドシナナチスと親しかったヴィシー政権支配下であったことが意識化できました。そのことはとてつもなく大きな意味を持っており、イギリスとフランスをまとめて西欧列強とこの文脈で呼ぶことはできないことを理解しました。要するに西ヨーロッパにおけるナチスVS英国の戦争がそっくりそのままと言っていいほど同じ構図で、東南アジアで展開されていた、ということになります。もちろん、これに米国も足す必要があります。

 「ニュースの三角測量」という意味で見ると、80年前にすでにそれが必要だったのではないでしょうか。アメリカの作家、フィリップ・ロスは1940年の大統領選でルーズベルトが再選されず、親ナチスの飛行士リンドバーグが当選していたらどうなっていたかを想像して書いた小説「プロット・アゲンスト・アメリカ」を出版しています。これはトランプ大統領の出現を予言したなどと言われています。3つの国、3つの地域を総合的に見つめていくことの大切さを今日のフランク・ミシュラン教授の講演で私は改めて感じました。

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フィリップ・ロス作「プロット・アゲンスト・アメリカ」