ジャック・プレヴェールは反抗する若者の心をユーモアを込めて詩にしたり、空襲に襲われる町にいる愛する女性を歌ったりと、愛と抵抗の精神の詩人として、今日もフランスで読み継がれています。プレヴェールを知っているかどうかはフランスを、パリを理解する上で極めて重要だと思うのです。それは私のような年配世代のおじさんが少年だったころからそうでしたが、今も変わらずそうでもあるのです。
パリの広場での抗議運動などを訪ねると、ポスターや落書き、さらにはギターで歌われている歌にプレヴェールの精神の片鱗を見ました。今日もその精神は生きていて、抵抗する若者たちにインスピレーションを与えているのです。そういうのがとても似合う詩人なんですね。バゲットみたいにどこにでもあり得る、庶民性があります。プレヴェールはシナリオの台詞も書いていましたのでマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」や「陽は昇る」「霧の波止場」「夜の門」などで見ることができます。フランスには1930年代に活躍した4巨匠(ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュビビエ、ルネ・クレール、ジャック・フェデー)がいて、もう一人、少し遅れてマルセル・カルネを加えて5人の巨匠による黄金時代がありました。戦前と戦争直後の時代です。
イヴ・モンタン主演の「夜の門」ではモンタンが、プレヴェールが作詞した「枯葉」を歌っています。「夜の門」(1946)には名優のセルジュ・レジアニも共演していまして、最後は鉄道自殺を遂げます、映画の中で。映画の制作年代を見るとまさに第二次大戦直後に作られた映画。戦時中の対独協力者(いわゆる「コラボ」)への処罰が進められていた時です。レジアニはコラボでナチスにモンタンの友人を売った人間として描かれていました。「枯葉」という曲は、かつて愛しあった男女が別れ、愛しあった日々の記憶も砂に書かれた足跡のように消え去っていく、というような悲恋です。この悲しい曲がなぜそんなにヒットしたかと言えば、もちろんジョゼフ・コスマの曲が美しい、ということもあるのですが、悲恋をここまで美しく、抒情的に歌っている、ということだと思います。別れていがみ合いの醜い後味を残すよりも(そういう方が多いのではないですか)、別れても美しい思い出を持ち続ける、という意味で、この曲は多くの人の心をとらえたのではないかと思います。フランスの戦時下の時代と言うのは単にナチスに占領されたというだけでなく、生きるために同僚を売ったりナチに協力したりした人々と抵抗した人々、さらに無力におびえながら生きる人々という風に分裂状態でした。ベルエポックと言われた時代から、人々が結びつき労働者の権利が進展した1930年代までにはぐくまれた豊かで希望に満ちた空気が一転して、人間関係がずたずたに引き裂かれたと言ってもよい時代です。「夜の門」が生まれた時代、「枯葉」という曲が初めて歌われた時代というのは、ナチスから解放された喜びこそあれど、その裏側では極めて苦渋に満ちた心の時代でもありました。映画監督のルイ・マルも「ルシアンの青春」という映画でナチのコラボになって最後は命を絶たれる若者の悲劇を描いています。こうした傷跡は癒えることはありません。そんな時代に、「枯葉」は傷ついた人々の心の奥深くに届く何かを持っている歌だったのだと思います。かつて愛しあった者たちが時の力に引き裂かれていく、その悲しみ。まさにそれがプレヴェールの詩の持つ深さでしょう。この詩は男女の悲恋というだけでなく、友達や同僚との決別など、もっと幅の広い社会的な射程を持っているのではないかと私は感じています。
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詩人ジャック・プレヴェール(Jacaues Prevert 1900-1977)に「自由の街」と題する詩がある。権力に抗する庶民の心を歌ったプレヴェールらしい詩である。
「自由の街」
軍帽を鳥かごに入れ、
鳥を頭に乗せて僕は出かけた。
「おや、もう敬礼はなしですか」
司令官が尋ねた。
「ええ、もう敬礼はしませんよ」
鳥が答えた。
「あぁ、そうでしたか。失礼しました。
てっきり、敬礼してくれるものと思っていましたので」
司令官が言った。
「気にしないでください。誰しも間違えることがありますから」
鳥が言った。
司令官の問いかけに頭の上にいる鳥が答えるのが新鮮であり秀逸である。鳥には自由が象徴されている。この詩はプレヴェールの最初の詩集に納められた8篇の中の1つだ。詩集は高校生たちがガリ版で刷った手作りの詩集だった。紙質は粗末なものだったが、1944年7月に200部が刷られた。1部はプレヴェールに送られ、詩人をいたく感激させた。それまで彼は詩を書いても、書きっぱなしで落ち葉のように散逸してしまっていたからだ。
ノルマンディ上陸作戦が1944年6月で、パリ解放は8月25日である。その間の出来事だ。ナチ支配からようやく自由が戻ってくる、その喜びがにじみ出る詩である。しかし、「自由の街」が書かれたのは1943年9月だった。まだドイツ軍による統治下で、詩人も南仏に疎開していた頃だ。元々シュールレアリスムから出発したプレヴェールにとって、まだ見ぬ自由を歌うことはわが意を得たりだったのかもしれない。
ここで敬礼を求める「司令官」はナチの軍人を直接的には意味していたのだろうが、同時にあらゆる抑圧的な存在を象徴するものでもあるだろう。プレヴェールは戦前戦後を問わず、このような詩や台詞を書き続けた。
戦後の1946年、改めて再編集されたプレヴェールの詩集「パロール」が出版されると、爆発的なヒットを記録した。未だに世界中で翻訳され版を重ねている。このような詩集はそれまで絶無だった。プレヴェールはその秘密をこう語っていたという。
「僕は憎しみという言葉を書いたことがない」
いつも反抗しているかのようだが、実は彼ぐらい愛と太陽を歌った詩人もいないというのだ。
ところで、長年、高校生たちの逸話は僕の記憶にも焼き付いていた。しかし、具体的にどんな経緯で彼らが詩集を印刷したのかはよくわからなかった。ところが、最近、出版社「六面体」のレミ・ベランジェ氏が出版した伝記本「エマニュエル・ペイエ(Emmanuel Peillet)」の中にその経緯が書かれていた。
エマニュエル・ペイエは作家アルフレッド・ジャリが提唱した反常識の学問をうたう集団「コレージュ・ド・パタフィジック」を実際に組織した創始者である。詩人プレヴェールも「コレージュ・ド・パタフィジック」の一員だった。そのエマニュエル・ペイエは当時、パリ北東の街ランスで高校教師をしており、プレヴェールの手作り詩集を作ったのはペイエの生徒たちだったのだ。これで年来の謎が解けた。
ちなみにベランジェ氏はペイエの伝記の出版の後、ペイエが生前に撮影した写真を集めて個展を開催し、さらにペイエのコラージュ作品集を出版するなど、奔走中である。
村上良太