「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

ノンフィクション映像の歴史

  この数年、いろんな人と仕事を通して「ドキュメンタリーとは?」とか、「映像とは?」みたいな話をすることが何度かありました。それぞれの好きなドキュメンタリー番組とか、自分の頭にあるTVの形が話に出てくるのですが、大上段なテーマ設定の割には具体的な話の視野が狭すぎて、そういう話を聞いていると、疲れてくることが多いです。というのは、ドキュメンタリーというか、ノンフィクションの映像は100年以上の歴史がありますし、草創期には英国のBBCよりも前の英国逓信省傘下の制作チームで試行錯誤が行われてきました。もちろん、まだTVなどなく、フィルムの時代です。TVの前にはラジオにおけるルポルタージュなども作られていました。そうした歴史を遡ると、いろんな試行錯誤があり、その大きな歴史の流れをつかんでいないと、空しい話し合いに終わってしまうと思います。今放送されている番組のどれが良くて、どれがダメか、というような話は基本的に現時点に存在しているコンテンツの話でしかないからです。

 メディアもフィルムからテープ、SDカード、そして・・・という風に変わりますし、当然、技術は進化していくものです。自分が仕事を覚えて生きてきたのはTVのある時代でしたが、後にはインターネットにつながっていきます。でも、今思えば、その大きな変化のプロセスで、制作体制や取材体制がインターネットに移行する以前から、その移行が始まっていたのです。映像分野がインターネット社会に移行する前から、カメラも変わっていきましたし、編集システムも変わっていきつつあったんです。ですから映画が上か、TVが上かとか、TVが上かネットが上か、みたいな話も意味がありません。時代とともにメディアも変わっていくのは当然なのです。

 何が言いたいかというと、私に仕事を教えてくださった方々はすでに亡くなって、もうこの世にはいないということです。その方々はこのノンフィクション映像史の中に生きてきたのであり、そして、私もまたその中にいるのです。その過去を私は忘れていいわけがないと思います。新しい時代だから、過去は捨てろとか、過去は振り返るな、という言い方が可能であるなら、戦争の過去も振り返るな、というのと同じだと私は思います。歴史の中に、時代を生きてきた人々の思いと思考、そして様々な試行錯誤があり、それを無視してよい訳がありません。そして、少なくとも私を指導してくれたTBSの先達たちは、優れた方々だったと思っています。そして、その時代の方々は戦争責任の追及と反省から出発している方々でした。それらの方々から教わった仕事の基本は忘れてはならないのです。まず、何よりも、取材者はカメラを持って現場に出向くことが基本だということです。いかなるネット社会になろうと、そのことは忘れてはならないと思います。お金がなくて電車賃や飛行機代が賄えない、という限りにおいては例外もあるでしょうが。

  放送局のプロデューサーの中には、恐らくは上司の受け売りでしょうが、「ドキュメンタリーとは・・・・であり」みたいな話をする人もいます。でも聞いていると、それは単なるその放送局の一時期の人事が作り出した1つの「方針」に過ぎないのです。その「現在」の方針をもって、昔からの普遍的真理であるかのように語るエリートの方が存在します。みんながそうだとは言いません。歴史を真摯に学んだ方も少なくないのです。でも、特に若い世代にそんな言い方をして恥じることのない人がいたのも事実です。独裁あるいはファシズムは、今、力を持つ人間が、現在を永遠化するために歴史を忘れさせようとするものです。そうした力に抗するには、歴史をひも解くことに限ると思うのです。

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 これは私が学生時代に教えていただいた山谷哲夫氏が共同翻訳者にクレジットされているノンフィクション映像の歴史書。映画とTVまでで、インターネット時代はカバーされてはいませんが、少なくとも1970年代までのノンフィクション映像の歩みが広い視点で綴られています。これは哲学を勉強する学生が哲学史をひも解くのと同じで、ノンフィクション映像をやる人にとって、いつの時代にどこでどんな試行錯誤が行われ、どんな流派が主流だったか、ということを知ることは極めて重要です。フランスの哲学教授試験であるアグレガシオンも、少なくとも西欧哲学についてはすべての流派の知識を問われるシステムです。それが大切なのは今自分たちがどこにいるのか、今やろうとしていることはどんな意味があるのかを認識する時に大きな力になるからです。

  メディアが新しくなると、ともすればやっているコンテンツ(中身)自体も新しいことと錯覚してしまいがちですが、すでに過去にもっと鋭い形で表現されてきた歴史がある、という可能性も出てくるかと思えるのです。TVは今は劣化したと批判されることが多いのですが60年間継続してきましたし、少なくとも30年くらいはメディアの主流であったと思います。その中で試行錯誤され、作られてきたもの、議論され、形成されてきた方法論や倫理はインターネット時代においても参照されるべきことが多いと私は思っているのです。