「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

ハンナ・アレント著「責任と判断」を読んだら、今こそカントの「判断力批判」が読み頃ではないかと

  ハンナ・アレントと言えば「全体主義の起源」で知られるドイツ出身の米哲学者で、ナチズムとソ連スターリニズムあるいは全体主義に関する研究で世界的に知られています。アレントは、その著作を読む前と読んだあとでは世界に対する視点がかなり違ってくる、という類の著者ではないかと思います。古代ギリシア時代の思想から、古代・中世・近代、そして20世紀の思想まで射程が広く、しかも知識が半端ではないため、そのテキストを読むと、古代から現代まで時間を超越しながら、あるテーマを考察する、という追体験ができます。

 「責任と判断」(中山元訳)は弟子のジェローム・コーンがアレントの論文やテキストをテーマに沿って編集してできた一冊ですが、焦点になっているのはアドルフ・アイヒマンのいわゆる「悪の凡庸さ」に関することです。アイヒマンアウシュビッツユダヤ人を送り込むナチの行政を行っていましたが、その責任を戦後追及されて、政策は上層部が決めたことで、自分は歯車の1つに過ぎなかった、と弁明していました。自分がユダヤ人抹殺の責任を問われるなら、広島に原爆を落としたパイロットも原爆投下による市民の大量殺戮の責任があるのだ、と。

  アレントは1961年に、ニューヨーカー誌の特派員という立場で、戦後アルゼンチンに潜入していたもののイスラエルモサドに所在を突きとめられ捕まってイスラエルの法廷で裁判にかけられることになったアイヒマンの裁判を傍聴しています。殺されたユダヤ人は600万人とも推定されていますが、計画の実行を指揮していたアイヒマンは思っていたような悪の化身的怪物などではなかったのです。自分は官僚機構の単なる歯車でしかなかったと弁明する男を見て、アレントは衝撃を受けたのでした。

 今、日本の官僚の中にも、与党の政治家や上司に銘じられれば公文書を改竄したり、意図的に誤ったデータを作成したりする人が何人もいます。中には苦悶して、自殺した人もいます。第二次安倍政権発足以来、行政やジャーナリズムなど様々な領域で、このテーマが日本で前面に出てきていることは疑い得ません。ジャーナリズムと書いたのは、それまで戦後培われ継承されてきた職業倫理を一瞬に放棄した人々が多数出てきたからです。「政府が右ということを左というわけにはいかない」というNHK会長にNHK局員たちが追従したことは衝撃でした。それでも従わないディレクターやプロデューサーたちを左遷したり、干し上げたり、番組をつぶしたり、番組に圧力をかけたりしています。

 アレントは本書で書いていますが、少なからぬ人々がカントの倫理学を学んでいたはずのドイツ市民が一夜にしてヒトラーの支配にひれ伏し、さらにもっと驚いたことはそんなドイツ人が、戦後になると急に民主主義の価値観に一夜にして切り替えられたという点でした。

 人間としての責任とはいったい何なのか、ということが問われています。上司に命じられたら、殺人もやるのか、と。菅政権は前政権の諸悪の追及をさせないためのポスト安倍政権、あるいは首相辞任後の官房長官による首相職兼任の域を出ません。責任を追及させないための政府、というのが今の日本政府の正体だと私は思っています。

 今、日本の経済は悪化しており、雇用状況も厳しいために、雇われる人の立場は弱くなっていて、そのために理不尽な要求を受けている労働者は少なくないのではないでしょうか。そのことを思えば、このテーマは官僚のトップだけの話では決してありません。

 「責任と判断」はアイヒマン裁判を扱いながら、同時に、カントの「判断力批判」について論じています。アレントが貴重なのは、20世紀の重大かつアクチュアルな事象を通して、古典となった様々な哲学書の解説をしてくれる点にあります。その往還を通して初めて現実の場でものをどう考えるか、という思考力が鍛えられていくと思えるのです。アレントには「エルサレムアイヒマン」と題するニューヨーカー誌向けにイスラエルから書いたルポを書籍化した本があり、これら3冊をまとめて研究したら、よほどこのテーマを深めることができるだろうな、と思わされました。