「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

日本の学生が選ぶゴンクール賞の選考が始まる その2 長編作品をどうする?

 フランスのゴンクール賞と私くらい、ある意味で距離のあるものはないかもしれません。ですので日本における学生が選ぶゴンクール賞のZOOMの準備会議をウォッチさせて頂いた時、大学の仏文科の教授の方々には「大学の外部の人間として、あるいはメディアの立場として、話し合いに立ち会わせていただきます」と申し上げました。大学の教授たちだけで準備会議をやると、大学の事情に引っ張られて、外部から見ると納得がいかない決定が行われてしまうリスクもあります。これは大学の教授たちを批判しているわけではなくて、どんな社会でも産業でもあるリスクなのです。

 で、一番大きな壁として立ちふさがっていたのが、半年弱の間に4~5冊の原書を学生たちが読むのは不可能だろうということでした。候補作の中には500ページを超える大作もあります。そんな本だと1冊読むだけでパンクしてしまう恐れもあります。私は1冊全頁を読まなくてもよいのではないでしょうか、と提言させて頂きました。本当は全部読んだほうがよいに決まっています。でも、現実問題として難しい。であれば、長編作品は最初に排除するしかない・・・・となる可能性もありました。しかし、きっと一般の人から見た時、小説が長いというだけで選考対象から外してしまうことは納得できないことに思えると思います。しかも、プルーストの「失われた時を求めて」のような100年に一度出るか出ないかのような傑作が500ページを超える作品として出てくる可能性は否定できません。あとで振り返ってみた時に、それをあらかじめ排除して選考していたのだとしたら、後悔することになると思えるのです。

  そうなると、全頁読む、という枷を一度外して、「読む」という行為をどこまでの行為か、その辺を検討せざるを得ないでしょう。すべての頁を読む、という枷を外せば長編作品でも時代に衝撃を与えるような作品であれば学生がトライしてみたいと思うに違いありません。その場合、たとえば冒頭、中盤、終わりと最低限読んで、あとは時間の及ぶ限り、読み進め、できなかったところつまり、隙間は教授たちのレジュメやアドバイス、講義などで補強して、自分の持てる限りの力を使って1冊の全容をつかめるようにするしかありません。それだったら世間の人も、さらには候補作の作者たちも納得してくれる気がします。

 これには私の経験が関係しています。私は日本映画学校に通っていた時代に朝日新聞の奨学生だったため、朝は午前3時に新聞販売店に入らないといけませんでした。学校から帰るとすぐに夕刊の配達です。さらに土日には集金業務や勧誘などもありました。ですので、ノンフィクションの講義で求められる週1冊の課題書(日本のノンフィクション作品)を読む時間を作るのが至難の業でした。そのため、最初、終わり、真ん中、あとは時間の及ぶ限り、隙間を埋めていくような読み方をしていました。で、講義の前日に、とびとびで読んだ部分を全体の筋書きを基に自分の頭の中で組み立ててみることをしていました。これは今思って見ると、映像データの通信で使っている圧縮という技術とよく似ています。学生時代に読みで苦労した経験が生かされて、放送業界に入った後は仕事の後、こんな風に間引かなくても読むスピードがアップしたため、1日1冊読めるようになりました。繰り返しになりますが、間を間引いていく読み方が決して良いと言っているのではありません。特に文学作品ではそうでしょう。でも、世の中にはどうしてもやらないといけない絶対状況があるのです。

 その意味ではゴンクール賞審査委員を経験した日本の学生たちも、フランス文学の読みに関して、やっている時は懸命だと思いますが、一度自分の枠を超える経験をしてみると、大きな変化があるのではないかと思います。