私はこのブログのタイトルを「ニュースの三角測量」としました。これは国際ニュースでは多角的に問題を見つめて行くことが大切であることを示しています。どういうことかと申しますと、国際ニュースというものは国や地域、言語や文化圏によって、同じ出来事を報道する場合でも、様々な見方の違いがあるものなのです。極論すると戦争をする2つの国家があった場合、両国のメディアの基本的論調も異なってきます。
本来、報道においては国益ではなく、真実の探求こそが大切なのですが、報道は産業でもあり、国からの免許も必要である場合もあり、様々な妥協を強いられ、その国における支配的論調に合わせるような圧力を受けるものなのです。たとえばある国の政治的支配勢力が「規制緩和」を大々的にやっていこうとすると、その旗振り役のコメンテーターが登場して様々な媒体でその考え方を発信していきます。それに対する批判者も登場しますが、勢いは異なっているのが常態です。そして、こうしたことは国境を越えて様々な国のメディアが多かれ少なかれ、置かれた状況です。
ですから、自国内の報道だけに触れていると、真実よりも、支配的な思潮に染まっていくのは当然です。そこで他国の報道を見ることが大切なのですが、外国においてもそれぞれのおかれた支配的な見方が存在しており、そこで価値観や歴史の異なる第三の国の報道にも接して、最低3か所の国や地域のメディアの情報を突き合わせて分析していくことが大切なのです。
ある支配的論調が出来上がってしまうと、それに反する事実は報じられなくなってしまいます。たとえば今回のロシアのウクライナ侵攻では、確かにプーチン大統領の暴力性と冒険性が悪なのですが、そうなるようにあたかも追い込んでいったNATOの歴史も見つめる必要があると私は思います。もちろん、その上でのロシアへの再批判も出てくると思いますが、そんな風に情報を縦に積み上げて複合的に見て行かないと、全体の情勢をつかむことはできません。報道で大切なことは物事の白黒をはっきりさせることではないのです。大切なことは様々な事実を積み上げて行って、たとえそれらが矛盾しあうものであっても、そうした全体を理解すること、それ自体にあると私は考えています。私が37~38歳からフランス語を学び始めたのも、これが理由でした。それまで外国の報道ではアメリカ一辺倒だったのを、フランスあるいは欧州の視点も加えてみて行こうとしたのです。
想像してみてください。ある政治的指導者が重要な政策判断を行う場合に、1つの価値観だけで切り取られた報道だけに基づいて政策を決めることの危険さを。たとえば第二次大戦中の大本営発表ばかり耳にしていると、大本営発表の報道では日本軍の勝利ばかりですから、現実の戦争がどうなっているかを理解するのは不可能です。矛盾対立しあう出来事でも、その積み重ねの全体から政策を判断していかないと、現実離れした政治判断が行われてしまいますし、経営判断もそうです。検閲ばかりしている国家では世界の正確な姿は見えなくなり、結果的に自国の力を損ねるものなのだと私は思います。
世界は複雑である、という認識が生まれたのは近代に入ってからでした。近代最初の小説と見なされるセルバンテスのドン・キホーテの話「ラ・マンチャの男」が出版されたのは1605年で、これは日本では江戸時代の始まりとほぼ同じ時期です。それまでカトリック教会が描くキリスト教的世界像が欧州の唯一の視点であり、すべての出来事は神の視点に立てば矛盾がなく、神の秩序に逆らうものは単純に悪でした。しかし、「ラ・マンチャの男」ではドン・キホーテはそれまでに頭に詰め込んだ騎士道小説のデテールに沿って身近な出来事を解釈するので、風車が怪獣に見えたりもします。しかし、本当に怪獣だったかもしれないのです。こういう風に近代とは神の摂理とは別に、様々な視点を持った人間同士が物事を複眼で理解する時代の始まりとなりました。物事の白黒をつける、というのはキリスト教会的な唯一の世界秩序をよしとするものでもあります。だからと言って、ナチズムを肯定する価値観を持つことは私にはできませんが、少なくとも人々がなぜ、そういう風潮に染まってしまうのかも理解することは大切だと思っています。でなければ根本的にその対策を取ることもできないからです。