「ニュースの三角測量」

ニュースを日英仏の3つの言語圏の新聞・ラジオ・TVから読んでいきます。アジア、欧州、アメリカの3つの地点から情報を得て突き合わせて読むことで、世界で起きていることを立体的かつ客観的に把握できるようになります。それは世界の先行きを知ることにもつながると思っています。時々、関連する本や映画などについても書きます。

アメリカの知識人の陥る視野狭窄の典型がここに

  ニューヨークタイムズのコラムニスト、ブレット・ステファンがウクライナ侵攻について述べたコラムは、確かにその通りだと思います。ロシアのウクライナ占領を赦し、傀儡政権の発足を許容してしまうと、さらにプーチンの野望はエスカレートし、中国の野望をも、香港の次の、許してしまう。だからウクライナを米国は守るべきだと書いています。さらに、ウクライナのゼレンスキー大統領を、歴史的にも地政学的にも全く異なる第二次大戦中のチャーチル首相にまで、なぞらえています。

  このコラムは米国が冷戦終結後、どのくらい恣意的に軍事力を行使して、身勝手な侵略を行ってきたか、傀儡政権を作ってきたか、他の地域の均衡をかき回し殺戮を増やしてきたか、その自己批判的な視点は皆無です。根拠のなかったイラク戦争もそうですが、アフガニスタンでも結局、国がボロボロになった後撤退しました。こうした自国に目をつむって、他国ばかりを糾弾する姿勢は、すべてではありませんが、政界を動かしてきた米国や欧州の1つの典型的思潮です。彼がプーチンや中国について述べていることを米国にもすべての国に普遍的にあてはめるなら、すべての侵略国はその人道的な罪を訴追されなくてはならないはずです。しかし、一人でも米大統領が過去に起こした誤った戦争で罪に問われたことがあったでしょうか?近代民主主義の核は権力の均衡であり、それこそが独裁を防ぐしかけだったはずです。ところが米国は冷戦後は特に世界で独裁者的に振舞ってきました。ロシアや中国の人権無視や侵略的振る舞いを責めるのは大いに結構ですが、自国も同じ基準で追及する姿勢がなくては説得力を持ちえません。

www.nytimes.com

 

 <The threat a free Ukraine poses to his regime isn’t, and never will be, military. It’s political. It’s the thought that if democracy, the rule of law and civil rights can take root in Kyiv, they might soon take root in Moscow, too, bringing an end to his rule and accountability for his crimes. >

 

 彼は上のように書いていました。拙訳にすると、「自由なウクライナプーチンに投げかけるものは軍事なものではなかったし、将来もそうだろう。賭けられているものは政治的なものである。もしキエフに民主主義が、法律と市民権のルールが根付くなら、モスクワでもすぐに同様になるだろう。プーチンの政権にピリオドを打ち、その罪をつぐなわせることになりうるのだ」

 プーチン大統領は領土的野心よりも、むしろ、自由で民主主義に基づく国家が隣にできてしまうと、ロシアでも自由と民主化を望む勢力が自分を放逐し、訴追する可能性があると考えたというわけです。

 これはまさにNATOの考え方です。NATOがなぜ東進して、ロシア国境まで迫ろうとしてきたのか、その根源にある考え方がここにリアルにしめされています。しかし、アメリカの戦略家や国際政治学者は、これと正反対のことを述べていたのです。NATOの東進こそがロシア人の危機感と警戒心をかき立て、せっかく冷戦終結後に歩み出したロシアの自由と民主化の機運を中断させ、プーチン権威主義的政権を誕生させてしまった元凶である、という考え方です。

 ステファンのようなネオコン的な理想主義が中東でもアフリカでも、実を結んだことはほとんどないと言ってよいと私は思います。それはアメリカンスタンダードを押しつけたのと同じであり、自由や民主主義を銃で押しつけても、持続可能性がないのです。その意味では極めてプーチンと同じタイプに私には思えてなりません。今、EU入りした東欧諸国で権威主義的政権が次々と誕生していますが、民主主義とか自由というものは、30年くらいで簡単に根付くものではないのでしょう。100年から150年くらいかけて理解ができてくるものです。軍事力で民主化したとしても、国民の多くがそれを理解できるまでには、少なくとも100年くらいの時間は必要なのです。