YouTubeチャンネル「フランスを読む」では、今回、パリ大学の坂井セシル教授に彼女自身が翻訳した文豪・谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」について話していただきました。ただし、18回目が日本語だったのに対して、今回はフランス語です。これはフランス人やフランコフォンの視聴者にも届きたい、という思いからです。そもそも、谷崎作品なのになぜ「フランスを読む」なのか?と疑問に思われる人も多いでしょう。
谷崎作品もフランス語で翻訳出版された場合、「フランスを読む」つまりはフランス語で出版された本を読む、という枠組みの中に入ると思うわけです。さらに、フランス語に翻訳されると言うことは、異文化の言語に翻訳される=解釈されることを経て、私たちがもしフランス語版で谷崎作品を読めば、原書とは違った世界がそこにあるはずなのです、たとえ原作に忠実な翻訳であったとしても、使われている言語の意味や歴史が異なっているわけですから。さらに言えば、日本の小説も一度、外国語に翻訳されて、その後、そこから再度、日本語に翻訳してみると、原書とは異なる文体になりますし、原書を読むのとは違った言語体験であると思います。そういう試みがあってもよいかと思います(多分、すでにどなたか手がけているかと思いますが)
坂井教授は翻訳活動の傍ら、パリ大学(パリ第七大学)で日本文学について教鞭をとっています。谷崎作品の翻訳もされていますが、川端作品の翻訳もされていて、川端論も出版されています。坂井教授は、この講演の中で川端と谷崎の生に対する根源的な姿勢の違いについても、語っています。川端文学では老人は死に向かって歩む諦観が基調であるのに対して、谷崎文学では主人公の老人は死に抵抗し、最後まで女性へのエロスを求めて周囲に騒動を起こすことも辞しません。
私は大阪育ちで、母校の高校が川端の出身校でもあり、私は中学高校の頃、川端作品は多数読みました。しかし、谷崎作品を読んだのは今回が初めてです。審美的な印象の谷崎世界に対して私は食わず嫌いだったのです。しかし、今回、この作品を読むことで、自殺が基調にある、あるいは特攻文化とも言える日本文化の1つの型とは異なる谷崎の生き方、文学世界に目を啓かれました。日本で自然にそれに気付いたのではなく、フランス語への翻訳された本、パリ大学の教授の講演がきっかけだったことが印象深く思えてなりません。