維新・国民・「有志の会」(衆院会派)が提案している改憲案を国民民主党のウェブサイトで見ました。 ウェブサイトの概略に次のようにあります。 「冒頭、二党一会派でとりまとめた議員任期延長に関する憲法改正条文案を発表し、説明を行った。条文案では、『いかなる緊急事態においても国会機能を維持し、権力を統制・分立すること』を基本に、緊急事態における議員任期延長の実体要件、その認定手続き、効果等を定めている。具体的には、①武力攻撃、②内乱・テロ、③自然災害、④感染症のまん延、⑤その他これらに匹敵する事態の発生を前提に『広範な地域において国政選挙の適正な実施が70日を超えて困難であることが明らか』な場合には、内閣の発議と3分の2の国会議決を経ることを条件に、6ヶ月を上限に任期延長を認めること等を定めている。」 6か月が「上限」の議員任期の延長は上限とは名ばかりで、6か月ごとに再度、任期の延長をすることができるようになっています。任期延長は災害やテロ、感染症などの場合に内閣の発議を受けて、議員の3分の2以上で決定可能となります。したがって、半年ごとに同じ決定を繰り返すなら、選挙は永遠にない国になる可能性があり、議員が生涯議員になることも理論上は可能なのです。というのも、「選挙が可能になった」状態が何かを決定するのは与党、すなわち多数党なのであり、チェック機能は一切働かないと考えた方が良いのです。この措置を終了する際は過半数の票で決定できますが、過半数を与党が握っていれば緊急事態の措置を永続される可能性があるのです。 すでに指摘されているように、ナチスが独裁政権を作ったワイマール憲法の緊急事態条項を使って制定した全権委任法も最初は任期を限度としていましたが、ナチスは任期の再延長を1945年のヒトラーの自殺まで繰り返しました。歴史から学ぶ、ということはこういうことです。 まず第一に考えなくてはならないことは、非常事態になった場合に今の政府や国会議員の構成が、危機に対処できる能力を持った集団であるかどうかは未知数です。平時と戦時とでは必要な能力が異なることは多いのです。ウクライナにしゃもじを持参したり、息子を秘書につけたりしている岸田首相に戦時の国民の全生命を預けることができると考える日本国民がどれだけいるでしょうか。同様のことが世襲制度が多くを占める与党議員にも言えます。彼らの中に庶民の暮らしが理解できる人間は少ないため、ただでさえ、無能な政治に加えて、非常時にさらに過酷な運命を強いられる国民が多数になるであろうことは容易に想像できることです。たとえば米国のアフガニスタンでの戦争は20年に及んだという事実であり、戦争が長期化する傾向があることです。戦争は敵国の首脳を殺しただけで終わることはなく、レジスタンス勢力と持久戦になることが多いのです。 1944年から1945年にかけてわが国がどのような事態だったかを思い返せば明白です。戦争を始めた政治家たちに戦争をうまく集結させられる能力があると考えるのは、世界の歴史を振り返れば極めてナイーブです。15年戦争と言われたように日本が日中戦争を始めたのは上海事変(1932年)そして盧溝橋事件(1937年)に遡り、1941年に日米戦争に発展した結果、日本の戦争を最終的に終わらせることができたのは二発の原爆の威力でした。戦争を始めた人間たちは責任を取らされるのを回避して国民の命が何百万人失われようと、終了を先延ばしにするものなのです。たとえば万一中国と戦争に突入して敗れそうな場合に、戦争を決断した自分たちが死刑にならないような形に講和条約を締結できるまで戦争を終えたくないでしょう。すなわち、最悪の場合、日本の戦争責任者が処罰される代わりに、国民の命をいくらでも差し出させる法案と考えても良いのです。最近、国民民主党の玉木雄一郎代表が「安全保障の議論というのは、いついかなる時に日本国民は血を流す覚悟ができるかということなんですよ」と発言しているのがSNSで広まっていましたが、この改憲案を見ればその真意が明瞭に見えてくるではありませんか。血を流す覚悟は、むしろ国民に問われているのです。 そもそも世襲制度で昔から政治権力を継承してきた国会議員に任期延長を無期限で可能にする憲法改正、というものは、例えて言えば1789年以前のフランスの旧体制に戻るようなものです。むしろ、いかなる状況であれ、非常時であっても選挙を行い、その時点で最も有能な人間をリーダーに選ばないと日本国の滅亡の可能性もあると考えた方がまともだと私は思います。その意味からも、この改憲案は議員たちの貧弱な想像力の作文に過ぎないと思えてなりません。 |